A.C.P.C.提携講座 ライブ・エンタテインメント論
提携講座/登壇講師インタビューseason 4
CHAPTER.1
下積み時代に学んだこと
― 講義での学生たちの印象をお聞かせください。
吉田浩二さん(以下吉田と敬称略):皆さん目を輝かせて聞いてくれていましたが、大人しい感じは否めないですね。もうちょっと目立つ人がいてもいいかな(笑)。
― 吉田先生が20歳の頃は、どんな事に興味を持っておられましたか?
吉田:僕は18歳まで京都にいて、20歳のときは横浜で一人暮らしを始め、自力で大学に通っていました。映画の仕事に就きたいという目的意識ははっきりしていたので、どうやったら映画の仕事に就くことができるのか、そのためには何をしたらいいかを模索していた時期ですね。
― 子どもの頃から映画がお好きだったんですね。
吉田:当時の京都は日本のハリウッドと呼ばれ、僕の家の近所にも撮影所がありました。ですから小さい頃から活動屋さん、時代劇の俳優さんは身近な存在で、撮影所の中は遊び場でした。
― 映画もよく観られたのですか?
吉田:中学2年のときに祇園会館という映画館で3本立ての洋画を観て、その頃から映画の影響を受けていましたね。同じ頃に一人旅で東京へ行き、ちょうど『ぴあ』が創刊されたときで、東京ではこんなに上映されているのかと、1週間、映画ばかり観ていたんです。
― それからのめり込んでいくわけですね?
吉田:ただ、まっしぐらというわけではなく、高校時代はスポーツや音楽や演劇などもやっていたので、漠然と映画業界、放送業界に潜り込みたいなという感じでしたね。でも、大学時代はほとんど映画を観ていないんです。
― それはまたどうしてですか?
吉田:アルバイトが忙しくて(笑)。でも大学4年の時に、このままじゃいかんと思って行動を起こしました。
― どのようにトライされたのですか?
吉田:映画の製作会社(プロダクション)の門を叩いて、ノーギャラでいいから下働きで使ってくださいと。本当にノーギャラでしたね(笑)。
― どんなお仕事から始まったのですか?
吉田:製作進行見習いという一番下のポジションで、弁当の手配など、言わばお茶汲みですね。次に、撮影が終わってからの仕上げの効果音などの編集の手伝いで、それもお茶汲みが中心ですけども、この下働きをやったのがとても良かったです。すべてが新鮮で、映画ってこうやって編集されて仕上がっていくのかと。また、それに関わるのはこういう人たちなのかとか。僕はこれを映画では出口の仕事と呼んでいるんですけど、全ての体験が役に立ちました。その後に他の会社へ移り、テレビの2時間ドラマの製作進行をやりました。そこでもお茶汲みとか、一番下の仕事をずっとしていましたね。
― テレビを経験して、その後はどんなお仕事をなさったのですか?
吉田:ターニングポイントとしては、働いていた会社が倒産し、そのときの先輩が西武デジタルコミュニケーションという、セゾン系の映像製作会社に誘ってくれたのが大きいですね。そこでドラマやドキュメンタリー番組の製作進行をやって、そのうちに任されることが増えていきました。僕は与えられた仕事を一生懸命やろうと思っていたので、ドキュメンタリー番組では世界各国を飛び回って、そこでいろんなディレクターさんたちに揉まれ、ここで自分の視野が凄く広がりましたね。
― そこから映画に入られたのでしょうか?
吉田:そうですね。セゾングループのセディックが映画をつくることになり、それは市川準さんの初監督作品である『BU・SU』(1987年公開)で、その時はプロデューサーのアシスタントです。僕はフットワークがあったので、市川さんが録りたい場所を探したり、脚本家さんとのやりとりや、映画会社との付き合い方など、それまで経験してきた仕事は出口ですが、今度は入口のところでいろんな経験をさせてもらいました。何年かその会社で映画の製作や現場に携わり、29歳のときに竹中直人さんが初監督の『無能の人』(1991年公開)の担当者として、初めてプロデューサーの仕事を経験しました。それからは、お陰さまでいろいろな映画のプロデューサーをしています。
― 吉田先生は、これまで例えば『十三人の刺客』や『図書館戦争』などのプロデューサーをなさっておられますが、どのようなスタンスでお仕事を引き受けるのですか?
吉田:やりたいと思うかどうかです。それから声をかけてくださる方とのご縁でしょうね。
― 学生たちには、吉田先生の下働きの中で学んだことなど、これからの参考にしてもらいたいと思います。
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