A.C.P.C.提携講座 ライブ・エンタテインメント論
提携講座/登壇講師インタビューseason 6
CHAPTER.1
小橋賢児さんへのインタビューその1
小学3年生のときからテレビ番組の『パオパオチャンネル』(※)などに出演し、子役として活躍していた小橋さんは、「僕は劇団に所属していたわけではなく、両親が共働きで鍵っ子だったこともあって、家が割と自由な環境だったので、自分で勝手にオーディションを受けました。そして運よく合格したんです」といった話から講義はスタート。
(※)『パオパオチャンネル』1987年10月19日〜1989年9月までテレビ朝日と静岡県民放送(静岡けんみんテレビ、現:静岡朝日テレビ)で放送されていた子ども向けのバラエティ番組。放送時間は月曜から金曜日の夕方18時 - 18時50分。
「その後、芸能活動を続けていく上で、劇団の子役さんと違って、セリフをどうやって覚えるか、どう話すのかなど、ちゃんと専門的な勉強をしたことがなかったので、ずっと独学で学習していました」と小橋さん。。
小橋さんは、天賦の才能があったのでしょう。その後も27歳まで、約20年にわたり、映画、舞台、TVの他、数多くのTVCMにも出演、芸能界で活躍していました。しかし、俳優の生活から抜け出し、自分らしい生き方を模索するようになります。その頃のことをこう話してくれました。
「子役から俳優になってオーディションを受け、役について、という。芸能界の仕事にのめりこんでいた生活がしばらく続いていましたが、何かどうしても日本の芸能界は365日働きづめみたいなところもあり、インプットの数が減っていってしまう…このままで本当にいいのだろうか、と悶々と自問自答してくうちにもっと可能性を見出したいと自分の好奇心がふとより広い世界に向き始めたんです。もっと自分を磨きたいというか。そこで、世界を広げるためにはまず英語を覚えようと考え、ボストンへ行きました。アメリカへ行く時に日本語を話さない環境を自分で作り、2つの目標を立てました。一つは外国人の友人をみつけてアメリカを車で横断する旅をすること、もう一つは英語で喧嘩ができるようになる事でした」。
さらに小橋さんの話は学生を引きつけました。
「結果、その二つは達成できましたし、その後様々なところへインプットの旅に行き、多様な文化に触れて、様々な人たちとの交流をしていくなかで、自分がやるならこうやりたいと積極的に映画やイベントの企画をするようになり、帰国してすぐにいろいろなところにプレゼンしました」。
しかし、事は進みませんでした。一社たりとも共感を示したところはなかったのです。
「長い間、俳優をやっていた僕がいきなりプレゼンしても足元みられるだけで、やはり最初はそう簡単にはいかなかったので落ち込みました。そのうち貯金も底をつきはじめ、小さなアパートに引っ越すしかなくなって、しばらくしてついに体を壊してしまいました。本当にどん底でしたね。でもその生活のなかで、体と心を整えるために山を歩いたり、自然のなかに身を置いたりすることを大事にしていたんです。そして、あるとき自分の誕生日を祝われるより、もてなそうというテーマを思いつき、自分の誕生日をイベントにしてみようと思い立った。たまたま知り合いがホテル関係者で、話をしたらそこのガーデンが安く使用できることになり、友人たちを集め、有料にして開催しました。収支はトントンでしたが、自分の考えを企画して実行したことでみんなが楽しんでくれて、人を喜ばすことの実感をつかんだのと、思えばこれが今につながるきっかけだったのかもしれません」。
最新バックナンバー season 6
年別記事一覧