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A.C.P.C.提携講座 ライブ・エンタテインメント論
提携講座/登壇講師インタビューseason 7

小橋賢児さん
Interviewee

REC.012 小橋賢児さん

LeaR(株) クリエイティブディレクター

プロフィールの詳細


CHAPTER.1
どのようにして自分を変えていったのか?

司会(松木直也):今日は、小橋先生が昨年5月に出版した『セカンドID-「本当の自分」に出会う、これからの時代の生き方』という著書からいろいろと質問をさせていただきます。
小橋先生は、8歳で芸能界にデビューして、人気俳優として活躍していましたが、27歳の時に突然の休業をします。その後、世界を旅し、帰国後は死の淵をさまよう病人という体験があり、それらを乗り越えて日本を代表するマルチクリエイターとしての今があります。まずは、俳優時代のころから伺っていきます。

小橋賢児さん(以下、小橋と敬称略):中学3年生のころからとにかく365日休みなく働き続け、映画『スワロウテイル』(1996年、岩井俊二監督)のホァン役やNHKの『ちゅらさん』のヒロインの旦那の上村文也役など、ヒット作に次々に出演する機会に恵まれて、20代前半のころ、まわりから「すごいね。人気だね」と言われることが増えましたが、でも僕は「何がすごいんだろう?」と、ほめられる意義がまったくわからなかったんです。

司会:忙し過ぎたのでしょうか?

小橋:そのころ僕は、同業者とばかり付き合っていて、個室でお酒を飲むようなことがルーティン化していました。俳優という立場を言い訳に、これまでの人と会わなくなり、自分の直感で行動することが難しくなっていき、心が死にかけていたというか、徐々に自分というものを失いはじめていたんです。「このまま感情のない生き方は続かない。いまの生活を少しでも変えなくては……」と日々考えることが多くなりました。

司会:どのようにして自分を変えていったのでしょう?

小橋:いままでとは違う場に行くようにし、プライベートで付き合う仲間を少しずつ変えていきました。そのなかでクリエイター(映像、DJ 、デザイナー)たちと出会い、彼らと話すと、子どものようにいまを楽しみ、自分の感じるままに仕事をつくっていることに気がつきました。それがキラキラしていて、とてもうらやましかったんです。

司会:大きく変化したのは、何歳ぐらいのときだったんですか?

小橋:26歳のときです。彼らとの出会いを通じて、まだまだ知らない感覚や忘れていた自分の感情を知り、それと同時に自分が何を求めているのかもっと知りたくなって、それで一人旅でネパールへ。なぜネパールだったかというと、特に大きな理由はなくて未知の世界へ行ってみたかったんです。

司会:ネパールはどこへ行かれたんですか?

小橋:カトマンズから飛行機を乗り換えてポカラへ入りました。ここで数日間、広大な大地をトレッキングし、満天の星に包まれていると、あらためて自分がこの宇宙のなかで「生かされている」ということに気づかされ、そんななかで地元の青年に出会いました。僕と同じ歳で、家に行くと3畳ぐらいの狭さで、そこに奥さんと3歳になる子どもと暮らしていました。

司会:どんなことがあったのですか?

小橋:彼のバイクの後ろに乗せてもらって美しい夕日が見える丘に行き、また泊めてもらい、そんななかで彼が「子どもを学校に行かせてやるお金がないんだ」って話してくれ、家族を守るために彼が「いま」を一生懸命に生きていました。でも僕は、同じ歳でありながら「いま」をないがしろにして……、そんなことに気がついたとき、勝手に涙があふれてしまったんです。

司会:帰国してからはどうでしたか?

小橋:10日間の旅でしたが、僕はほんの少しだけ自分を取り戻した。しかし、自分の心が気づき始めているのに、何事もなかったように仕事をこなしている自分もいました。そのうちに、その場をうまく取りつくろっていることが本当に苦しくなって、芸能界を休業することにしました。それからは誰に相談することもなく携帯電話を解約し、頭を坊主にして単身アメリカへ渡ることを決めました。

司会:アメリカでは、どんなことをしていたのですか?

小橋:ボストンへ行き英語の勉強から始め、そのときに2つの目標を立てたんです。1つは外国人の友達とアメリカを車で横断すること。もう一つは、英語で友達と喧嘩できるようになることです。そして日本に帰るまでに、この2つの目標を達成するため勉強漬けの日々を送り、途中大学のESLに編入しました。3カ月たったある日、テレビで話しているキャスターの言葉が急に理解できるようになり、その日から外国人と話すことが怖くなりました。それからは日に日に友達が増え、目標だったアメリカを横断するための仲間にも出会うことができました。

司会:アメリカ横断の旅はいかがでしたか?

小橋:行く先も決めず思いのままにアリゾナ、セドナ、ニューメキシコ、テキサスへ行き、最終地がマイアミでした。そこで大きな野外フェスティバル『ULTRA MUSIC FESTIVAL』に出会いました。これを見ることになったきっかけは、マイアミでたまたま日本人の友人に会い、彼から世界中からDJが集まってきてカンファレンスやパーティが街の至るところで行われていることを聞き、僕も参加したんです。

司会:その後、どんな変化がありましたか?

小橋:トルコに皆既日食を見に行ったり、ネバダの砂漠で開催されている『バーニング・マン』に参加したり、そんなふうにさまざまな国の文化や旅先で出会う人々に触れるうちに、いい意味での僕のリミッターはどんどん外れていったんです。
それからは、何でもできるような気になって日本では、まわりの友だちは何一つ変わってないように見え、なんだか時間が止まっているような気分でした。そのときはそれなりに、経験や知識を得たと自負していたので、すぐに仕事が見つかると、たかをくくっていましたが、しかし20年近く芸能界にいた僕が他の仕事をするスキルを併せ持っているわけでもなく、それどころか俳優というレッテルが逆に邪魔をし、僕をビジネスの相手として見てくれる人は現れませんでした。

司会:それからはどうしましたか?

小橋:仕事もなく貯金も底をつき、時間だけが流れていき、すべての歯車が狂いだし、医師からは「肝機能障害です。小橋さんこのままだと死んじゃいますよ」と診断されました。僕は人生最大の負のスパイラルへ落ちていき、いままで現実から逃げ出すことで自分を守ろうとしていたけど、逃げても、逃げても結局はこうやってどん底まで落ちてしまったという無残な現実でした。

司会:どうやって乗り越えていったのですか?

小橋:だったらもう逃げても意味がない、落ちるとこまで落ちたからこそ、あとは上がるだけだと、そのときなぜか素直に開き直ることができたんです。そしてその開き直りによって、自分の30歳の誕生日をセルフプロデュースするというアイディアがひらめき、それも祝ってもらうのではなく、僕がもてなすことで、みんなが心から楽しめるパーティを開こうと考えたんです。
そして3カ月間その準備に没頭しましたが、人は誰でも3カ月本気でやれば変われます。結果、300人が参加してくれ、仲間のありがたみを感じました。また、ピンチをどうとらえ、どう行動するかでその後の人生が面白いほど変わってくることを僕はこれらの経験から学ぶことができたんです。

司会:その経験は『ULTRA JAPAN』に挑む、きっかけにもなったんですね?

小橋:僕が『ULTRA JAPAN』を日本で開催する話をすると、まわりの人は当たり前のように日本では無理でしょうという反応でしたが、それでも僕はあきらめなかったんです。
ある日偶然に、当時のエイベックス・ライブ・クリエイティブの代表の方と会いました。何も約束もしていなかったのにもかかわらず話を聞いていただき、僕はその場で猛烈にどうかこれを日本で開催してくださいと、とにかく無我夢中で必死に説得したんです。その後、協力を得ることができ日本開催に向けてスタートすることになり、結果2日間で4万2000人を集客することができました。

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